永遠の命を信じるのは簡単です。
神様は、死んだ人々を永遠の命にあずからせてくださいます。信仰を持つ私たちは、死んだ後、永遠の命を受けるということを信じています。
でも実は、キリスト教に限らずほとんどどんな宗教でも、死後の永遠の命が信じられています。
では、人間がどんな宗教に属していても、キリストを信じていなくても構わないのでしょうか。
神様のことを知っていても知らなくても、誰もが永遠の命を受けられるのですから、永遠の命についての心配はしなくても大丈夫です。
かつては、神様を信じさせるために、永遠の命は人間の良い行いに対する報いとして教えられていました。神様を信じて正しい生活をすれば、あるいは、教会の掟をちゃんと守って実行すれば、永遠の命を受けることが出来る。正しい生活をせず、教会の道に従わなければ、絶対に永遠の命を受けることが出来ないという教えがあったのです。
その教えの結果は、福音によるものとは逆だと思います。どんな正しい活動をしても、それが充分かどうか心配し、厳しい神様から永遠の命を受けられないかも知れないという、尽きない不安や恐れを招いたのですから。『神様は愛の神様』という教えを受けても、その愛を全く理解できず、神様から離れる恐れがあったのです。これこそ大失敗でした。
どんな宗教を信じても、永遠の命を受けられるのだと信じることと、キリスト教を信じて、厳しい神様から永遠の命をいただけるかどうか一生心配することと、どちらが良いでしょうか。この考え方は、どちらも間違いです。
永遠の命は、永遠の命の源である神様から受けるのです。神様の子、イエス・キリストを通して受けるのです。では、神様のみ心を悟るために、聖書に書かれた人間についての教えを読んでみましょう。
マタイ9、22:
「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」
聖書による「救い」という言葉は、永遠の命を意味しています。この文章を理解することは、神様に信頼することですから(信仰)救われるのです。ここには、イエス様の奇跡の行いとして、救い、つまり永遠の命が記されています。
エフェソ5、8:
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
洗礼を受けることを通してキリストと結ばれる人は、もはや暗闇(神様を見られないこと)の内に生きるのではなく、光の子として生きることになりました。神様の光によって照らされて、光の子となったのです。
救いも光も、つまり、永遠の命は、神様からいただいた宝物です。キリストがご自分を捧げることを通して、永遠の命をもたらしてくださったのです。
神様は、いつ私たち一人一人に、この命を与えてくださるのでしょうか。命をいただけるのが、死後だけだと思っているとしたら、それはまだ神様の顔が見えず、神様のみ心を知らないということになります。福音の引用では、人々が救われたのは、死んでからでしたか?人々が光の子となったのは、死んでからでしたか?
信仰により、神様の救いを受け入れた時、私たち人間は光の子になることができます。神様は、私たち一人一人を大切にしてくださるので、永遠の命にあずからせるまで、私たちを待たせるわけではないのです。もう既に、永遠の命は与えられているのですから。
信仰を込めて、私たちはこの恵みを受け入れましょう。
四旬節に入り、洗礼の恵みを受けたことを思い出すのは、特にこの神秘にあずかるためです。私たちの共同体の中で、洗礼を受ける方のために祈りましょう。この神秘にあずかり、幸せのうちに、永遠の命を受けたことで平和になるように!
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