「私はある」とイエス様が言われた時、ユダヤ人たちは驚き、イエス様に対して腹を立て、石で打ち殺そうと企みさえしました。イエス様は、ご自分のことを示すため、ご自分の心を表すために、この表現を使っていました。実は聖書の中で、この表現を使って自分のことを表した人は一人しかいませんでした。モーセだけが、火に燃え尽きない柴の間で出会った神にその名前を願い、「私はある」と知らせてもらいました。聖書の中の「私はある」という声は、神の声だけです。ユダヤ人は、聖書の中に(ヘブライ語の)「私はある」との表現が出てきても、神様への尊敬から、絶対にそれを発音しません。その代わりに「アドナイ」=「主」と読んで発音します。
イエス様は、ご自分のことを説明するために「私はある」とはっきり言いました。しかし、ユダヤ人にとってイエス様は普通の人間でした。ですから、ユダヤ人から見ると、イエス様がこの表現を使うことは、神様への冒涜であり、あり得ないことだったのです。
イエス様の受難の時、オリーブ山に来てイエス様を探していたユダヤ人たちは、「私は(で)ある」というイエス様の言葉を聞いて、「後ずさりして地に倒れた」と書いてあります。イエス様はこの言葉を使って、神様に等しいものとして現れました。「私は神だ」と宣べ伝えたのです。私たちは、このような背景があるユダヤ人と違い、「私はある」という言葉の持つ深い意味がはっきりわからないような気がします。
信仰の道を歩んでいる私たちは、イエス様が神様によってこの世に遣わされたことを信じます。では、イエス様が神様そのものだと信じることはどうでしょうか。ユダヤ人たちは、「私はある」というイエス様の言葉を聞いても、イエス様が神様と等しいものとして、もしくは神様として現れたことを受け入れることが出来ませんでした。アブラハムやモーセ、全ての預言者などが、神様の御心に適う物として神様の御言葉を宣べ伝えるのは当たり前です。しかし、ユダヤ人たちにとっては、イエス様がご自分のことを神様として、神様のことを表すなどあり得ないことでした。
でも違います!
神様が、イエス様を通して御自分のことを表したのです。イエス様は、私たちの世に現れた神様です。イエス様は、それを私たちに理解させるため、受難に入る前にこの表現を使ってご自分の愛を言い表しました。「私はある」と言うイエス様は、この世を新しくするために、つまり、私たち人間を救うために、ご自分を生贄として捧げました。私たちも、ユダヤ人たちと同じように、イエス様の口から出る「私はある」の言葉を聞いても、イエス様を神様として受け入れず、全てを新しくしてくださる神様を退けるのでしょうか。あるいは、「私はある」と聞くことで、神様を認め、その中に神様の愛を見いだすことが出来るのでしょうか。そして、受難を受けて死に、復活したイエス様を、この世を救ってくださる神様として認めることが出来るでしょうか。
大震災で苦しんでいる日本の民も、イエス様の言葉を聞き、救ってくださる神様を見いだすことが出来るように祈ります。キリストであるイエスの復活の恵みによって!!
2013年12月20日
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