イエスの親しい友だちである弟子として、大切なのは、イエスと一緒に生きることです。
私たちが、イエスの友だちとなることは可能でしょうか。私たちは弱い人間ですから、普通に考えれば、神であるイエス・キリストの友だちになれるとは思えません。ところが、私たちがイエスの友だちとなることは、イエスの望みなのです。イエスは、私たちの中に来て、私たちの間に宿られ、確かに私たちの友だちとなりました。しかし、私たちは、イエスの愛に気がつくこと、気がついてイエスの友だちになることができたでしょうか。
イエスを信じ始めた時から、私たちはイエスの弟子となりました。弟子として、イエスの模範に倣い、彼に似ることができれば良いと思います。それは、私たちの信仰生活の目的ではないでしょうか。
でも、イエスの友だちとなるのは…?
もちろん、私たちはそのためにできるだけ祈りますが・・・。私たちは、キリストの復活によって恵みを頂くのでしょうか。福音を読むことで、 福音のみ言葉によって新しくさせて頂くのでしょうか。毎日曜日、ごミサに与ることで、救いの神秘に与らせて頂くのでしょうか。神様を探し求めることによって、心を開かせて頂くのでしょうか。実は、私たちがイエスの友だちになれるかどうかは、 私たち自身の心の改め方次第です。
そうですね。改心しなければ、キリストの信者になっても、イエスの友だちにはなれないという恐れがまだあります。
改心しなくても、私たちは外見上、普通の信仰生活をしているように見えます。けれども、イエスが私たちにしてほしいのは、そのようなこととは違います。イエスが望んでいるのは、私たちが心を開いて、今現在のために、復活の恵みを受け入れることです。外側から見ることはできませんが、それは、私たちがイエスの友だちになったと認めること。イエスと私たちとの間にある、親しい愛の絆を認めることです。
このようにして私たちは、まさにイエスの弟子となります。イエスの弟子たちは、もちろんイエスの模範に倣って彼に従いますが、イエスの親しい友だちである弟子として大切なのは、イエスと一緒に生きることです。
私たちがイエスと一緒に生きることは、信仰生活の目的でしょうか。
私たちは、イエスの行ったことを行おうとする時、イエスに頼り、彼と共に行うでしょうか。私たちは、休む時、祈りながらイエスと共に休むでしょうか。私たちは、隣人に仕える時、イエスの力によって仕えるでしょうか。
よく見ると、私たちは、イエスの友だちである弟子として、少しずつイエスの使徒となっていきます。それは、杯を飲むまでイエスに従うということです。つまり、イエスが私たちのためにご自分の命まで捧げたのと同じように、私たちも少しずつ、隣人のために自分の命を捧げるようになっていくのです。隣人が誰であるかは、皆、具体的に分かっています。私たちが、その人々に自分の命をキリストと共に捧げることによって、確かに私たちはイエスの友だちとなっていくのです。つまりそれは、イエスの杯を飲むことです。それが、イエスの復活を証しすることなのです。
私たちは、カトリック湯川教会の信者として、喜びのうちに、五十周年のお祝いを行います。これを、イエスの友だちとして行うのでしょうか。
2013年12月20日
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